Alpine Square / アルパイン広場
6月28日出発「ボスニア・ヘルツェゴビナ最高峰登頂と世界遺産モスタル 9日間」
内戦を経てたくましく生きるボスニア・ヘルツェゴビナ
ボスニア・ヘルツェゴビナは東ヨーロッパのバルカン半島に位置し、人口は約350万人、面積は四国と九州を合わせた位の大きさです。この国はユーゴスラビア崩壊時に独立しましたが、その独立を巡って1992年から1995年まで国内で暮らすボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人との間で激しい内戦が展開されました。現在は治安も落ち着き、国内に暮らす人々は何事もなかったかのようにたくましく生きています。今回ガイドをしてくれたサムエルMRは現在40歳。彼は内戦とともに幼少期を過ごしました。「砲弾を潜り抜け学校に通ったこと」、「母親が目の前で撃たれたこと」などをバス車内でまるで人ごとのように語り、「内戦も僕の人生の一部、内戦がなければ今の僕はいないし、きっと人生は違うものになっていた。僕は自分の人生に満足している、登山ガイドとして皆さんを含め世界中の人々に会えるこの仕事がとても誇らしい」と締めくくっていました。
世界遺産モスタル
オフトレイルが続くウグリイシン峰
最高峰登山の前日、足慣らしのためにウグリイシン峰に登りました。この地は第二次世界大戦中にチトー率いるゲリラ部隊パルチザンとドイツ軍が激しい戦闘を繰り広げた場所です。現在は一面がお花畑となり、とても美しい自然が広がっています。ウグリイシン峰へは広い尾根道を登りました。上がるにつれディナラ山脈の山々がぐんぐんと姿を現しました。そして谷を挟んで対岸にひと際目立つ岩峰がどんと鎮座しています。ボスニア・ヘルツェゴビナ最高峰マグリッチです。「うわー明日あれに登るのね~!」とみなさんも興奮気味です。山頂から展望を楽しんだ後はオフトレイルの稜線歩きを楽しみました。花が咲き誇り、その花を踏みながらバラバラになって幅広の尾根を下りました。やがて登り返し今度はやせ尾根歩きです。眼前には剣岳のようなアブドルの岩峰が迫ってきます。周囲に登山者は皆無でした。宿泊地に戻り夕食時には日本vsベルギ-のワールドカップを観戦しました。ボスニア人も大勢集まり一緒になって日本を応援してくれたことは忘れられません。
ウグリイシン峰の稜線歩き
ボスニア・ヘルツェゴビナ最高峰マグリッチ(2,386m)
いよいよマグリッチに挑戦です。樹林帯を抜け草原帯にでるとマグリッチの荒々しい岩峰が目の前に突然現れます。この山は連続した岩場を登ります。ところどころにワイヤーが張られており、険しい箇所は手を使いながら登ります。レベル的には北アルプスのザイテングラード程度です。今回は皆さん健脚揃いでスイスイと登っていきました。稜線に到着するとそこはモンテネグロマグリッチとボスニアマグリッチの鞍部です。実はモンテネグロマグリッチの方が2mだけ標高が高いのです。まずはボスニア最高峰のマグリッチに向かいます。山頂部は大きな岩の塊のような山容で登りごたえがありました。山頂にはボスニアを構成するスルプスカ共和国の旗とチトーの碑がはめ込まれていました。大展望を楽しみ、モンテネグロマグリッチへ。ここから眺めるボスニアマグリッチは圧巻でした。更に稜線歩きを続け、ハート型の湖トルノバチ湖へ下りました。ボスニアの山々は近年ヨーロッパのトレッカーの間で人気が高まってきていますが、世界の他の国々に劣らない魅力があります。
マグリッチに向かって
首都サラエボ観光とトレベビチ山ハイキング
サラエボのトンネル博物館ではボスニアを包囲したセルビア軍とボシュニャク人の激しい戦闘の歴史を学び、ボスニア市内観光では第一次世界大戦の発端となったラテン橋や、内戦時世界中のジャーナリストが滞在した黄色い外観の「ホテル・ホリデイイン」、スナイパー通りなどを見学しました。周辺の建物は銃弾の跡がたくさん残っています。ボスニア郊外の山肌一面に広がるもの凄い規模のお墓も訪れました。街の中心部は他のヨーロッパの国々と同じで世界中の観光客が楽しそうにショッピングを楽しんだり、カフェのテラスで談笑しています。最終日、私たちは今年の4月にようやくリニューアルオープンしたトレベビチ山のロープウェイに乗り、サラエボ市内まで下りのハイキングをしました。このトレイル上には内戦前に開催された1984年サラエボ冬季オリンピックのボブスレーのレーンが残されています。1992年から始まった内戦ではこのエリアはセルビア軍が占領し、レーンは砲撃のための壕として使われていました。私たちはそのレーンの上を歩き、サラエボ市内を見下ろしながら市内へと下りました。
今年再オープンしたサラエボのゴンドラ