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2016/03/29 お知らせ

登山界“おちこち”の人、三浦雄一郎さんの長女、恵美里さんに聞きました。

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平成28年4月10日 第381号
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インタビュー連載 第13回


山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。

三浦雄一郎さんと豪太さんの冒険スキーとエベレスト登山を陰で支え続けてきた、三浦家長女、恵美里さんに裏方稼業のご苦労とやりがい、次のチャレンジを語っていただきます。


── 三浦雄一郎さんの三度の世界最高峰エベレスト登頂を支えました。最初の2003年、二度目の2008年、そして三度目は2013年でした。恵美里さん自身は、このエベレストの前にヨットレースの最高峰、アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームの要員でした。登山とヨットレースのバックヤードでのご苦労も多かったのではないでしょうか。

 エベレスト登山隊の裏方で一番大変だったことは、資金面でも渉外などでもなく、自分自身の肉親としての気持ちの整理でした。とくに2003年、父、雄一郎が70歳で挑戦したエベレスト登山では、そのことを強く感じました。アメリカズカップ・ニッポンチャレンジチームでは国際渉外とキャンペーンディレクターを務めましたが、アメリカズカップのヨットレースでは人は死にません。しかし、エベレスト登山は命が代償となることもあります。
 2003年のときはすでに1970年のエベレスト大滑降から30年以上が経っていました。当時は70歳でのエベレスト登山は無謀だと思われていましたし、父の命に関わることを他の人に任すことはできないと思いましたから、世界最高峰のヨットレースから父の世界最高峰の登山のサポートへと私自身も変わり、家族もまとまったのです。弟の豪太が一緒に登ることになった時はうれしくて、安心しましたが、母は息子を危険な登山に巻き込むことには反対のようでした。
 その後のエベレスト登山でもいつも何らかのトラブルがまるで高いハードルのように出てきます。二度目の2008年は、チベット騒乱のため中国側からの登山ルートをネパール側に急遽変更することになりました。この時のエベレスト登山では、弟の豪太が脳浮腫を発症し、父、雄一郎のその後の頂上アタックの成否と両方の大きな心配が重なったのです。
 安全と安心はある程度資金面でも対応できると思います。贅沢はしないけど信頼の高い装備をそろえ、充分な酸素を準備し、トップクラスのシェルパチームや支援態勢を整えるための準備をしなければなりませんでした。
 翌年の2009年、父が76歳の時にスキーで骨盤骨折の重傷を負いました。札幌の病院へ入院し、車イス生活になるのでは、との心配もありましたが、父は80歳でエベレストに登る、という大きな目標がありましたからリハビリで驚くべき回復を遂げました。
 三度目の2013年は、80歳でのエベレスト登山でしたが、“心配”という気持ちを手放すことができるようになりました。“心配"することから、“信頼”することへ変わったのです。心配から信頼へ、ということを体得したのです。

── ヨットレースの最高峰、アメリカズカップのことを聞かせてください。1987年のオーストラリア大会直後からニッポンチャレンジチームのキャンペーンディレクターとして活躍し、1992年、95年、2000年の大会では、マネジメント担当でした。

 アメリカズカップは、人の生死の“心配”はありませんが、ヨットレースは、勝利への“信念”が強いので裏方も大変です。ニッポンチャレンジチームでは勝つためにやるべきことがたくさんあるのです。チームは70人構成で、バックヤード態勢はエベレスト登山の何百倍もの規模でした。エスビー食品の当時社長であられた山崎達光氏からアメリカズカップに日本から初挑戦するというお話を聞き、チームに加わることに決めました。ニューヨークでは資料を読みあさり、世界のヨットクラブを回り、1987年のオーストラリア大会から関わりました。当時はまだ20代です。まったく知らないヨットの世界でのスタートでした。ヨットは長い歴史の中でも、『レディースアンドジェントルメン』の挨拶で、レディースが省かれるくらいの男性社会です。そんなハイエンドな紳士ばかりの社会の中でアジアの若い女性としても自分自身としても初めての経験を積みかさねて12年間関わってきました。このアメリカズカップでの経験は三度のエベレスト登山隊で大いに役立ったと思います。
 小学校卒業後すぐにアメリカ留学へ出されましたから、未体験の環境で、何もないところから、どうすればいいのか、ということが自分自身の身についてきているのではないかと感じています。環境がまったく異なる米国社会で12歳の時から小切手(パーソナルチェック)を持たされ、お金の管理について学ぶなど、米国では小さな自分でもやることがはるかに多いことを学びました。こうしたことがその後の自分の原点となっているようにも思えます。

── さて、チョーオユー登頂と滑降計画、90歳でのエベレスト登頂が目標にあがっています。

 2013年の80歳でのエベレスト登頂のために、父は心房細動のカテーテル治療をおこなっています。70歳を過ぎてから、実に七度もカテーテルを心臓に入れて治療しているのです。目的をもっているからできることです。80歳でエベレストに登頂できると思っていたのは本人だけで、まわりの全員が登頂は難しいと考えていたのです。命だけは無事であって欲しいと願っていたのですが、結果は登頂してしまいました。父は目標を掲げて、必ずその目標の着地点を合わせることが得意です。帳尻というか辻褄をあわせる名人です。1970年のエベレスト大滑降でも映像を見ると最後はクレバスの中でなく、雪のくぼみでうまく着地して止まることができました。70歳、75歳、80歳の三度のエベレスト登頂は、「想定外常識」とでも言うのでしょうか。チョーオユー滑降計画も父はきっと自分で着地地点を定めることができると思います。90歳でのエベレスト登山は願望です。父、三浦雄一郎にとって、世間一般常識の集大成といったものはまずやって来ないのです。101歳までスキーで滑っていた、祖父の敬三が父にとっての大きな励みになっているのだと思います。

── 豪太さんが医学博士号を取得され、さまざまな分野でも活躍されています。ミウラ・ベースに設置されている、低酸素室は高所登山者とトレッカーのために役だっています。

 登山はやるべきことを行なえばリスクの軽減となることがエベレスト登山隊でもよくわかりました。高所登山やトレッキングでの低酸素室利用はそのひとつの方法になると思います。一方で純粋なビジネスとして考えるとまだまだ厳しい状況です。でもミウラドルフィンズ社長としては、最低限の利益は確保しなければなりません。スポンサーからのサポートがあるのはありがたいことです。父は話すのが苦ではないので、講演の仕事もあり、話しも明快でわかりやすく、難しいことは言いません。サービス精神も旺盛ですから、声をかけてくださるのだと思います。
 父は、今日珍しく背広にネクタイで外務省まで出かけて、さきほどもどってきました。日本・ネパール国交樹立60周年の親善大使に任命された、と言っておりました。
 

(インタビューおわり)


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 このインタビュー前夜、首都圏の大学山岳部に加えて北海道大学山岳部のOBたちの集まりがありました。北大の“空沼小屋”再建についての話しのなかで、北大出身の三浦雄一郎さんの活躍ぶりが話題になりました。三浦さんは北大現役のころ旧秩父宮ヒュッテでもあった、空沼小屋に泊まってスキーをしていたのです。さて、恵美里さんですが、スポーツビジネスに携わってきた、垢抜けた女性として、ミウラドルフィンズ社長の風格を兼ね備えた、上品なレディーの雰囲気も漂わせていました。
 我が社生みの親、亡き芳野満彦が描いた大きな作品が飾られた部屋で話しを聞いていると、三浦雄一郎さんと芳野さんの交友録もいずれ聞き出さなければならないと心に誓ったのであります。
 

(平成28年3月25日 聞き手:黒川 惠)