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2016/03/03 お知らせ

登山界“おちこち”の人、山岳救助のプロ、金 邦夫さんに聞きました。

   Newsletter 2016年3月号
平成28年3月10日 第380号
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インタビュー連載 第12回

 

山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。
 

20年にわたり、奥多摩の山で山岳救助活動に身を挺してきた、金 邦夫さん。警視庁山岳救助隊副隊長を退任後も、再任用され、後輩隊員の指導にあたってきた。山岳救助のプロ、金さんが、救助現場からの声を届けます。

── 40数年に及ぶ警視庁での警察人生に終止符を打ちました。さまざまなことが脳裏をよぎるのではないでしょうか。退職後の昨年5月に出版された、「すぐにそこにある遭難事故 奥多摩山岳救助隊員からの警鐘(東京新聞)」に収められている目次の最初は、「100メートル転落すれば剱でも奥多摩でも結果は同じ」、です。


 警察での仕事を終えてこの3月で丸3年になります。初任地は蔵前警察署、そこで2年、その後機動隊に異動となって、都市災害レスキュー部隊に配属されました。それから五日市警察署に異動し、山岳救助隊としての勤務が始まりました。古い話ですが1978年3月の過激派による成田空港管制塔占拠事件では、第7機動隊のレンジャー部隊に所属していましたから、この管制塔奪還のために上層のテラスに設置されたパラボラアンテナを20mほどロープなしで最初に駆け登ったのが自分でした。ガス弾を撃ち込み鎮圧したのです。当時から7機にはレンジャー部隊があり30名ほどが所属していました。
 山の話しをしましょう。長い間、登山届けの重要性を訴えてきましたが、最近も御前山で行方不明者が出ています。今年の1月11日にトレーニングで入山した登山者がマイカーを残したまま、行方不明となっています。18日に大雪が降り、山はまだ白いままです。21日に家族から警察へ連絡があり、通常は警察で1週間ほど大掛かりな捜索をして、発見されない場合は民間救助隊を紹介するようにしています。昨日まで東京都山岳連盟(都岳連)の救助隊に自分も参加して4日間捜索していましたが見つからなかったのです。この事例もそうですが、登山計画書があれば発見される可能性は高まるのです。しかし家族もどこへ登りにいったかわからなければ探しようもないのです。駅のモニターで本人が写っていないか家族に見てもらい、本人のパソコン検索履歴などから登山計画を予測するのですが困難を極めます。とにかく、家族には登山計画書を残しておいてもらいたいものです。
 最近はトレールランニングを楽しむ人も増えていますが、落とし穴があります。走っていれば重要な分岐の標識も見落としがちになります。ランナーは両足が地面から離れているので、落ち葉の下に隠れている浮き石に着地すれば転倒滑落の危険もあります。登山者との接触事故も含めて事故件数は増えているのが現状です。
 著書にも書きましたが、一杯水避難小屋で連続した、特異な山での強盗事件では、対刃防護衣に拳銃携帯で出動しました。山岳救助隊の隊員が、入山しようとした犯人を職務質問から確保しました。

── 山形県小国町の出身で、警視庁山岳会「クライム・ド・モンテローザ」の第一期生です。米国ヨセミテでの山岳救助研修にも参加しました。山岳救助の装備と技術はどんどん進歩していますが、救助する側と要救助者の側にも言いしれぬ思いがあるのではないでしょうか。

 「クライム・ド・モンテローザ」は最初、7~8人でスタートしました。60年代後半から70年代が活動の全盛期で南アルプスでの冬山合宿では30人くらいのメンバーが参加して、かまぼこ型テントなども使用していました。いまもメンバーとは新年会など定期的な集まりもあり、一緒に山行に行くことも多いのです。1977年のヨセミテ研修は神奈川県の日本赤十字社のメンバーと一緒にプライベートで10日間行きました。低い岩場での研修でしたが、ハーフドームやエルキャピタンの大岩壁は圧倒的でした。
 山岳救助の現場では、足がつったくらいでの救助要請もあったのです。自分たちで対応できるようなケガの程度でも救助要請を受けて出動します。かつての山屋たちにはプライドがあって、自分たちが起こした遭難事故で警察に救助要請することは恥ずかしいとの思いがあったのです。でもいまは登山者気質も変化しています。こうした遭難と救助の実例は著書に書かせてもらっています。
 警察や消防の救助隊は公務出動ですから救助費用は請求しません。以前に遭難者のご家族が救助隊本部に100万円を持参されたことがありましたが当然受け取りはお断りしました。
 長年山岳救助をやってきていると喜びもあるのです。14年前、奥多摩湖南岸の山中から消防ヘリで発見し、ダムの中を警察の舟艇に乗せ救出した女性に最近再会しました。お互いに受講していた、「大菩薩峠を読む」という文学セミナーの講座での邂逅でした。
 それからとくにうれしかったことは著書にも書きましたが、大学ワンダーフォーゲル部の学生が真名井沢で滑落し、意識不明の重体から回復して大学院を卒業し、大きな会社へ就職して結婚し子供も授かったと家族の写真を送ってもらったことです。これはまさに救助隊冥利につきるのです。

── さて、警察人生から、いよいよ山を楽しめる人生への踏み替え点を越えました。昨年秋には、香港の山々を歩かれました。慣れ親しんだ奥多摩と香港の山々、共通点は見つかったでしょうか。

 1959年の東京国体(国民体育大会)山岳競技の奥多摩での開催がきっかけで、警視庁山岳救助隊が組織されたのです。私が警視庁に入る7年前です。思えば長い警察人生でした。昨年は17回講演活動をしてきたので退職したとはいえ山ばかり行けるわけではありませんが、昨冬は横岳小同心クラックを何十年かぶりにトップで登りました。昨日まで4日間の捜索活動で山中を歩いていましたが持久力や体力はまだまだ大丈夫。でも、来年は古稀を迎えるのですから自分に見合った山登りをしたいと思っています。
 昨年秋に仲間と出かけた香港の山々は、「香港アルプス」と呼ばれているようですが、「ミニ奥多摩」といった感じで、のどかな雰囲気でした。高層ビル群と世界の金融市場のイメージが強い香港ですが、カントリーパークと呼ばれる、“奥多摩的"な低い山々の上から、すぐ近くに海が見えたのが印象に残っています。
 

(インタビューおわり)
 


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 高校山岳部では国体やインターハイ予選で慣れ親しみ、その後は縁遠くなった奥多摩の山で、こんなにも多くの山岳遭難が発生していることを金さんから聞いたのは、平成16年7月の全国山岳遭難対策協議会(全山遭/高知県開催)でした。この全山遭ではシンポジウムにも同席させてもらい、ツアー登山の安全対策について意見交換をさせていただきました。以来、金さんは、実力派の山の先輩として何かと動静が気になる存在となっているのです。
 このインタビュー終了後、新橋の居酒屋で杯を傾けながら金さんは、「単独」、「高齢」、「初心者」、「男性」、が要注意なのだ、と繰り返していました。たしかに近著のなかで出てくる遭難事例は、この4つのキーワードが強く関係しているように思えます。そして、警察や消防の公務出動の費用についても懸念されます。救助費用に見合った金額を遭難者と家族からの寄付として受け入れる行政の体制づくりがなぜできないのだろう、と日頃から思っているからです。
 さて、登山家には名文家が多く、心打つ言葉で山への憧憬がたくさん書かれてきました。金さんの近著、「すぐそこにある遭難事故 奥多摩山岳救助隊員からの警鐘」(東京新聞)は、臨場感たっぷりで、てらいのない率直な書きぶりのなかに、金さんの山への畏敬の念と人命の尊さへの訴えがほとばしっているかのようです。仕事の手を休め、ページをくくりだしたら、もう止まりませんでした。

 

(平成28年2月15日 聞き手:黒川 惠)