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News / ニュース

2015/10/29 お知らせ

登山界“おちこち”の人 新ハイキング社 社長、鮫島員義さんに聞きます。

    Newsletter 2015年11月号
平成27年11月10日 第376号
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インタビュー連載 第8回

 

山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。
 

創立65周年を迎える、「新ハイキング」は、書店にも並ぶ、著名なハイキング専門誌であり、規模の大きなクラブです。両者の誕生とその関係、クラブ運営の秘訣について、新ハイキング社 社長、鮫島員義さんに聞きます。
 

── 新ハイキング創立65周年おめでとうございます。新ハイが創立された昭和25年は、先の大戦の終戦からわずか5年、31年のマナスル初登頂の6年前です。この時期から、「読んで、登って、仲間ができる」の合い言葉があったとは思えませんが、誕生のいきさつはどうだったのでしょう。
 

 「新ハイキング」のルーツは昭和7年に小池利兵衛氏によって発行された、雑誌「ハイキング」です。この雑誌は昭和18年6月の119号まで続いています。17号から川崎隆章さん(山と溪谷社創業の川崎吉蔵氏の兄)が編集者となり、次第に高い評価を得るようになりました。この川崎隆章さんが編集を退くときに催した慰労会で、後に「新ハイキング」の初代社長となる、澤田武志さんと二人目の社長となる、小林玻璃三さんが出会ったのです。二人は「ハイキング」への執筆を通じて知り合い、この執筆者の仲間たちが戦後に「ハイキング」を受け継ぐ形で「新ハイキング」の中心メンバーとなり、創世記・発展期の「新ハイキング」を支えていくこととなりました。
 第2次大戦後に小林玻璃三さんが、勤めていた銀行の地下倉庫に残してあった私物の写真引き伸ばし機などを売却し、これを元に新聞広告を出し、戦前の山の仲間へ呼びかけてハイキングの復興をしようと考え、昭和20年11月14日の毎日新聞に3行広告を掲載しました。その後も広告を繰り返し、300人以上の会員が集まったのです。これが今日の「新ハイキングクラブ」の始まりとなります。当初は「明朗歩行会」、その後「明朗山行会」となり、のちに「新ハイキングクラブ」となるのです。昭和21年2月には謄写版刷りの会報創刊号を発行しています。
 昭和24年暮れごろから、澤田武志さんは、ハイキング専門雑誌を発行したいという志の下で、昭和25年5月、関東一円の私鉄7社より広告を取り付け、隔月刊である雑誌、「新ハイキング」を創刊しました。4000部が印刷されたのです。そして同月、澤田さんが初代社長となって「新ハイキング社」が設立されました。そして「新ハイキング」は、今年創立65年を迎えたのです。


── 戦前、戦中、戦後と、先人のご苦労はたいへんなものでした。それを受け継いでゆかれる、現社長鮫島さんは、小林玻瑠三さんの娘婿でもありますが、そのご苦労もまた並大抵のことではありません。

 昭和52年、それまで27年間経営と編集を一手に引き受けていた初代社長の澤田武志さんが66歳で急逝されました。その後、小林玻璃三さんが25年間にわたり経営を引き継ぎ、平成14年に、バトンを渡されました。
 当時、「新ハイキング社」の社長は引き受けましたが、まだ山での経験も浅いこともあり「新ハイキングクラブ」の会長は引き受けなかったのです。義父でもある小林さんにはクラブの集中山行の際などに「後継者です。」と紹介されてはいましたが、平成20年、小林玻瑠璃三さん逝去の後、正式に「新ハイキングクラブ」の会長に就任したのです。
 小林前社長の娘婿ではありますが、結婚当初は、義父である小林さんがどのようなことをしているのかよく知らなかったのです。私は気楽に山に登りたい逍遙登山派でしたが、当時の小林社長は、私が当時勤務していた名古屋まで「新ハイキング」を送ってきました。しかし当時は忙しくて、新ハイに掲載されている、関東周辺の山に行ける状態ではなかったので、わざわざ送っていただくことを申し訳なく感じていましたから、もう送らなくてもいい、と言ってしまいました。
 それでも勤めていた会社を50代に退職し、さてどうするかという時に、「うちに来ないか」と、声を掛けてもらったのです。それで、平成12年の50周年祝賀会(京王プラザホテル)に出席しましたが、その際の雰囲気がとても良くて、しばらく忘れられないほどでした。自分が所属していた、一般的な大きな会社の組織と比べて、新ハイキングは山での厚い仲間意識と山以外でのさっぱりした人間関係が素晴らしく調和していることを心地よく感じていたのです。これは澤田さんや小林さんが育んできた、新ハイキングの文化です。

── 新ハイキングクラブは、新ハイキング社発行の月刊誌「新ハイキング」の読者で構成されているのですが、雑誌の読者をそのまま会員制度として定着させるビジネスモデルは他ではみられません。成功の秘訣を聞かせてください。

 創刊時より続いている、雑誌定期購読料を会費とするシステムは他の団体には見られないユニークなものです。会費は、1年間(7000円)と2年間(12500円)の2種類がありますが、いきなり会員になるのはややハードルが高いと感じる方のために、平成22年から、「おためし会員」制を導入し、半年間で4000円としています。現状、定期購読を始めた人の3分の2程度はクラブに残っています。山行には参加しなくても雑誌だけ読んでいる、という会員も多いのです。会員構成ですが、20代は僅少、30代も少なくて、多いのは60代から70代です。リタイヤされた方々です。有職者はなかなか頻繁に山に行くことは難しい世の中だということでしょうか。
 毎月書店に並べられる、月刊「新ハイキング」はクラブの会報誌ではなく、定期刊行物の扱いです。雑誌の前半には山の記事、後半に会報誌としての情報を掲載しています。多くの登山クラブは、クラブが先にあって、それから会報を出しますが、新ハイキングクラブは、会報ともいえる月刊誌が先にあって、そのもとに会員が集まっています。地域の支部やカメラグループなど、特長ある活動が強みで、山好きな人にとっては、まさに「読んで、登って、仲間ができる。」のですから、これが秘訣かもしれません。

── さて、月刊「新ハイキング」ですが、カラーグラフも満載ですから、版型を大きくすればもっと見栄えがよくなります。A5版にこだわる理由があるのでしょうか。それから、あの独特な筆致の手書き概念図はどなたが描いているのでしょう。

 この大きさの雑誌はいまでは珍しくて、書店では表紙を上にして目立つように重ねて置いてもらいやすく、ひいきにしてくれる店員さんも少なくないのです。それにザックにも入れられるコンパクトさが会員にはうれしいのです。山の往復の電車でも気軽に読めるからです。
 手書きの山の概念図は「新ハイの流儀」です。投稿者から送られてくる山行記録の地図は、GPSや地形図を基にしたものなど多彩ですが、編集者がそれを新ハイ・スタイルの概念図に描き起こしています。現在は6名が担当していますが、コストも時間もかかります。データ印字など他の方法もありますが、この「新ハイ流概念図」は実にわかりやすくできています。概念図には執筆者の山行への強い思いや、こだわりが詰まっているので、この手書き概念図はこれからも続けていきます。まさに実地に歩いた者だからこそ読者に伝えることができる、手作り感溢れる山行記録とガイド記事の土台になっているからです。
 

(インタビューおわり)


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 鮫島さんとの会話の中では懐かしい名前がたくさん出てきました。30代のころ、山行をともにした新ハイ・リーダーの多くは、鬼籍に入られています。関東近県の山から、北アルプス白馬岳や南アルプス光岳など、海外はカナダや米国や、韓国、マレーシア、台湾など一緒に歩きました。当時のリーダーは60代でしたから、いまの自分と同年代でした。それを思うとなんとエネルギッシュな人たちだったのだろうとあらためて感服しています。山が人を若返らせてくれたのでしょうか。
 当時、山の計画を作って、板橋の新ハイ事務所に出向き、夜は近くの居酒屋で酒を飲みながら自分の父親のような人たちと山の話しをしていたことを昨日のように思い出します。そこで自分たちの仕事は普通の旅行会社ではなく、手作りで山のリーダーと山の企画を練り上げることであり、参加してくれた会員が、「行ってよかった。」、と感じてくれることなのだ、と新ハイ・リーダーから教わってきたのです。いまさらながら、その思いは強まるのです。
 「読んで、登って、仲間ができる」の合い言葉そのままに、「新ハイキング」は、雑誌もクラブもますます隆盛となることを予感したインタビューでした。

 

(平成27年10月13日  聞き手:黒川 惠)