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2015/09/10 お知らせ

登山界“おちこち”の人 山の魂を描き続ける、山里寿男先生を訪ねました。

    Newsletter 2015年9月号
平成27年9月10日 第374号
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インタビュー連載 第6回


山の世界の彼方此方で活躍している人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。
画家として毎日絵筆をとり、生涯現役。
山の魂を描きつづける、山里寿男先生を白馬村にたずねました。


山里 寿男さん
プロフィール
1931年東京生まれ。1955年東京芸術大学油画科卒業。その後、日本各地の山岳、ネパールヒマラヤ、ヨーロッパアルプス、アンデス、パタゴニアをはじめ、世界各地の山岳と周辺の風物を取材し、個展(34回)や出版物で作品を発表している。山里寿男「山のスケッチスクール」主宰。主著:「登山者のためのスケッチ入門」「山のスケッチ手帳」「旅のスケッチ手帳」「信濃・山みち里みち塩の道」「今から始める山のスケッチ」(以上、山と溪谷社)、「ヒマラヤ山里寿男画文集」「すぐ役立つ山の絵の描き方」「岩場ルート図集」(以上、東京新聞出版局)、「画文集 道ひとすじ」「山のスケッチだより」(以上、筑摩書房)、「スケッチの山旅12ヶ月」(実業の日本社)、「春ふたたび」(山のデッサン館)。ほか多数の単行本装画、表紙、カット、紀行画文集など。


── 東京芸術大学油画科を出られて60年です。終戦から70年の節目を迎えましたが、多感な青少年期を戦中、戦後とすごされてきました。絵画の道に入られたきっかけはどこにあったのでしょうか。

 終戦のときは13歳でした、浅草橋に住んでいましたから空襲はひどかった。子供のころから絵と書ではたくさんの賞をいただいていました。中学1年生の時の絵の先生の指導を受け、なんとなく絵の核心は何かを感じました。数年後、高校のクラブ活動が復活し、そこで美術部でデッサンをやって、東大志向の多いなかでしたが、芸大を志望しました。
 その芸大の学生仲間で上高地に向かうとき、松本駅で足立源一郎さんと出会いました。「芸大生ですが、足立先生ですか。」と問いかけたら、「上高地の五千尺旅館に来なさい。」と言われて五千尺に出かけて、当時の学生には手の出なかったビールをごちそうになったことはよく覚えています。足立源一郎さんはヨーロッパで絵を学び、山を素材にした名作をたくさん残しています。
 その数年後、自分の山のスケッチをたくさん抱えて、足立先生のお宅をたずねました。玄関ドアにのぞき窓があって、「君はだれ?」と問われたので、上高地で会ったことを話したら家に上げてくれて、絵も見てくれました。驚いたことにその場で、山と溪谷社と岳人に紹介状を書いてくれました。これが、プロの画家としてのデビューにつながるわけです。


── 来年は日本山岳会のマナスル初登頂から60周年を迎えます。日本の登山ブームの火付け役ともいわれるマナスルですが、先生の登山人生への影響はあったでしょうか。
 

 マナスルより、むしろ深田久弥さんのの入会を勧められました。それで風見武秀さんにネパールのことを教わり、出かけたわけです。ちょうど女子登攀クラブのアンナプルナⅢ峰の遠征隊も同じころでした。ひとりでヒマラヤ山中を歩きながら、アンナプルナ、ダウラギリ、そしてエベレストなど見えてくる山をなぎジュガールやランタン、山川勇一郎さんのアンデス、写真家の風見武秀さんや信州大学の医師、古原和美さんとの交流はいい影響を与えてくれました。それから瓜生卓造さん、新田次郎さん、安川茂雄さんなど、当時の山の文化人とでもいうような人たちから得たものは限りなくあります。アンデスで亡くなられた、山川勇一郎さんの遺作展は新宿伊勢丹でおこなわれましたが、どれも感銘をうける作品ばかりでした。その後、銀座松屋で私の個展をおこなったとき、深田久弥さんが来られて、「山川さんの跡継ぎになってくれ。」と言われたのは、いまになればいい思い出です。
 

── 日本の山だけでなく、多くの海外の山々を描かれています。45年前にはネパールヒマラヤで3ヶ月山を歩き、500枚もの作品を描かれました。そして42年前にヨーロッパアルプスに行かれ、マッターホルンに登頂されました。アルプスの冷たい岩壁を登って、山頂に立たなければ描けないものがあったということでしょうか。


 深田久弥さんに、「君のヒマラヤの絵を見たい。」、と言われ、日本山岳会へ倒すように描きまくりました。 ヨーロッパもひとりで歩きながら描きました。アルパインツアーの芳野満彦さんとは、ヒマラヤやアルプスでよく出くわしました。芳野さんとの思い出はつきません。マッターホルンは、遠くでその姿をとらえ、近くに寄って麓から見上げ、そして岩稜に取り付くとそこは情け容赦ない冷たい世界です。ひたすらよじ登るだけ。頂上の十字架は登ったから描けるわけです。


── 対象物を切り取る点では、絵筆もカメラも道具として同じです。忘れないように写真を撮っておいてから描くこともできそうです。でも先生が山の写真を撮影されるとは聞いたことがありません。


 「見えるものを描く、見えないものは、見えないように描く。」これが、「見えること。」です。写真を撮って記録して、後から描けばいい、というものではありません。写真は、自分と山との間にレンズを媒介としています。機械も必要です。絵は、自分の目で描くこと、心で描くことです。直接自然の中に入り込めることが大切です。風にまかれ、雲があってもねばる、濃い霧がきても描きます。スケッチ教室の生徒さんが山の中でスケッチしますが、いつのまにか、あたりに人がいるとは思えない静寂が訪れます。全員が無我の境地に入っている、こんな時間が大好きです。

── 初心者が、「山の絵を描きたい。」と思ったとき、まず何から始めたらいいでしょうか。スケッチブックを手にして、大きな山を目の前にすると手も足もでないのです。

 まず基礎的にはデッサンです。それに描くことをこわがらないこと。上手、下手は、大人と子供のようなものです。子供が大人になるように上達します。その方法は、昔から徒弟制度というものがありますが、要は自分が尊敬する先生とその作品に接することです。そこで指導を受けることです。物真似は芸術の基礎みたいなものですが、ほんものの基礎を勉強することです。何ごとも基礎がなければ先には進みません。
 

(インタビューおわり)

 


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 山里先生を白馬村にたずねた日、あいにく白馬連山の稜線は雲に隠れていましたが、我が母校中央大学黒菱小屋のあたりは雲も切れ、いつも転がりながら苦労した、リーゼンスラロームの急傾斜がはっきり見えました。夏のスキー・リゾートは寂しげなものですが、白馬村には近年多くのアウトドアメーカーが直営ショップを展開し、垢抜けた雰囲気が漂っています。かつての白馬村は、“細野集落”で駅名は、“信濃四ッ谷”。大きなキスリングザックを背にして雪山に向かった日々を懐かしみながら山里先生との話が弾みました。
 山の絵は一枚も描いたことがない、門外漢にも先生は、登山界の人脈を織り交ぜながら、「山を描く心構え」を丁寧に語ってくれました。たしかに写真は、山と人との間にレンズと機械があります。絵は自分の目と心で描くこと、直接自然の中に入り込むことが大切なのだ、ということが素人にも理解できました。
 それから先生は、物真似は芸術の基礎みたいなものだが、ほんものの基礎を勉強することが大切で、何ごとも基礎がなければ進歩はない、と言われました。とくに登山は身の安全のためにも「基礎」が大事であり、その根っこは「体力」ですから、“昔とった杵柄”が頭をもたげてくるたびに、「基礎体力維持」を心に刻んでいる次第です。
 

(平成27年8月19日 聞き手:黒川 惠)