世界の山旅を手がけて49年 アルパインツアー

海外・国内のハイキング、トレッキング、登山ツアーのアルパインツアーサービスです。

お問い合わせ

facebook twitter

News / ニュース

2015/05/10 お知らせ

登山界“おちこち”の人 第2回目は、日本の山岳団体元締め、日本山岳協会会長の神崎忠男さんです。

        Newsletter 2015年5月号
平成27年5月10日 第370号
印刷用PDFはこちら

インタビュー連載 第2回

 

山の世界の彼方此方で活躍されている人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。

神崎 忠男さん

略歴
1940年5月生まれ。1963年日本大学卒業、山岳部に在籍。1966年日大北極圏グリーンランド登山隊。1970年日本山岳会エベレスト登山隊。1976年パミール・コミュニズム峰遠征隊。1980年日本山岳会チョモランマ登山隊。1991年チョ・オユー・シルバータートル登山隊。1992年南極撮影支援隊。1995年日大エベレスト(北東稜)登山隊。1999年日中友好学生雪宝頂登山隊。1999年日大メラピーク登山隊。1989年「太郎花子山の会」設立。2001年「軽登山靴倶楽部」結成、代表として現在に至る。

公益社団法人日本山岳会元副会長、公益社団法人日本山岳協会会長
 

── 日本山岳協会会長の任期満了がもうじきです。国体登山も様変わりし、人工壁のスポーツクライミング全盛です。振り返ってみていかがでしょうか。50年以上前の日本大学山岳部時代に今日の登山のありようは想像できたでしょうか。

 自分の年齢と健康からいっても登山者としての任期、賞味期限切れを迎えるというところでしょう。日本山岳協会の会長職のみならず、日本山岳会(JAC)、日本山岳協会(JMA)、日本ヒマラヤンアドベンチャートラスト(HAT-J)等の運営と活動に関わらせてもらい、それぞれ役員も経験させていただきましたが、役員だから役員でないからと任期にこだわって仕事をしてきたことはなく、自分のできる精いっぱいの力を発揮してきて登山人生の任期満了といったほうがいいと思っています。
 ただ、長い間組織に関わってくると登山の変遷についていけないというか、常に過渡期という感覚で新しい登山の導入、人工壁のスポーツクライミングもそうですが、そうしたものに追われて、実際の登山以上の息切れを感じ、ここにきて最近は、肺に水は溜まるは、不整脈や心不全になるはで、駅の階段を登っていても8000m峰を登っている感覚で東京でも酸素ボンベが欲しいなあ、と思うこの頃です。
 振り返ってみて印象深いことは、1982年に国際山岳連盟創立50周年イベントがカトマンズで開かれ、山岳自然環境保護憲章として「カトマンズ宣言」が発布されると日本でも自然保護活動が盛り上がり、登山者すべてが自然保護を考えよう、と山岳環境団体ヒマラヤンアドベンチャートラスト(HAT-J)が創設されました。1980年代から90年代は登山者の高齢化や社会構造の変化で中高年登山が隆盛したかと思うと、90年代は一挙にスポーツクライミングワールドカップ競技大会をきっかけに人工壁でのクライミングが盛んになりました。
 大学山岳部で自分たちが目指してきたアルパインクライミングやヒマラヤ登山が減ってきて、極限を求める登山から競技クライミングへの変化がめざましく、日本山岳協会は公益社団法人として組織の変革と登山界の変化で目まぐるしい時代を迎えていると思う。今回の会長任期満了でほっとしているのが正直なところです。

── 最初のエベレストから45年です。1970年の本隊は南東稜と南西壁から登頂を狙い、南東稜から松浦輝夫さんと植村直己さんが5月11日に日本人初登頂(第12登)を成し遂げ、その翌日には平林克敏さんとサーダーのチョタレが第13登をしました。当時は三浦雄一郎さんのスキー隊も同じルートでエベレスト登山をしていましたが、両隊の交流はあったのでしょうか。

 偵察隊から数えると46年目。自分の登山を振り返ると、1970年エベレスト隊でのローツェフェースにおける滑落事故、1980年チョモランマ北壁隊での登攀中の急性心筋梗塞など、登攀隊員としての使命や任務が果たせなかった。
 エベレスト日本人初登頂も日本山岳会隊だが、来年2016年は、日本山岳会マナスル登山隊の初登頂60周年にあたるので記念行事も期待したいと思っています。
 当時の大遠征隊は、誰かが登頂すればその登山は成功だったし、それが当たり前だと思っていました。植村君が松浦さんに先に山頂に立つよう気遣いしたり、一次隊が重い映像カメラを岩陰に残し、それを二次隊の平林さんらが回収したり、こぼれ話はたくさんあります。サウスコルから山頂を見て、これは自分でも行けるぞと思っていたからこの隊で登頂できなくても無念な思いはありませんでした。
 当時、日本山岳会隊は毎日新聞後援で、三浦雄一郎さんのスキー隊は読売新聞後援だったから両隊の組織としての交流はなかったといえます。しかし、隊員同士は大学山岳部や社会人山岳会の仲間ばかりだったからルート上で出会えば気楽に話しをしていました。三浦さんがいよいよスキー滑降をするときは登山隊も行動を休み、スキー滑降の成功を祈ったのです。

──アジア山岳連盟における日本の役割とは何でしょうか。
    日本山岳会の「日・中・韓三国学生交流登山」は継続されています。
  
 アジア山岳連盟は、1992年に国際山岳連盟(UIAA)が松本市で総会を開催したことがきっかけになって設立の機運が高まり、1994年に韓国のインチョンで発足総会が開催され、日本山岳協会の当時の斎藤一男会長がアジア山岳連盟の初代会長に就任したのです。当時日本は、UIAAがある中でアジア山岳連盟の必要性は感じていませんでしたが、アジア各国からの日本への期待は大きかったのです。アジア各国では登山の歴史やヒマラヤ登山の経験も大きな違いがあって、人工壁クライミングに力を入れている国もありました。クライミング競技をオリンピック競技種目にしようと国際クライミング連盟はがんばっているが、それに並行してアジアの国々のクライミング競技の環境整備は重要です。オリンピック種目になったときにアジアの国から一国でも多く参加できる体制づくりに尽力することもアジア山岳連盟の役割の一つではないかと思います。
 学生登山の交流は、1999年秋の日本・中国友好学生登山隊(四川省・雪宝頂5,588m)が皮切りでした。その後は2007年から、日本・中国・韓国の3カ国間で長年続いています。それぞれの国の持ち味を生かした山行を合同でおこない、交流をはかろうとするものです。日本には山スキーを楽しめる深い雪の山があり、中国には学生でも挑戦できる高い山があり、韓国にはソウル近郊にも岩登りができる岩峰があります。一昨年は第7回日中韓学生交流登山を日本で開催し、クライミング大会の後に全員で富士山に登りました。これからも三国の学生登山者がお互いの国を訪れ、交流し、クライミング競争だけではなく自然保護も含めて登山者としての正しい登山観を養う機会になればと思います。                   

   (インタビューおわり)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 神崎さん、本日はお忙しいなかお時間をとっていただきありがとうございました。日山協やアジア山岳連盟のこと、私にとっては身近な日本山岳会のことなど、耳の痛いご指摘も“オフレコ”でお聞きすることができました。神崎さんが張り巡らせた人脈は国内だけでなく国外にも広がり、この山岳旅行業界でも我が社を含めて後輩たちが活躍しています。肺水腫や心不全をものともせずにその強力な馬力で後輩たちをいつまでも叱咤激励してください。

(平成27年4月7日 聞き手:黒川 惠)