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2015/04/10 お知らせ

登山界“おちこち”の人 初回は、女性で初めてエベレストに登頂された、田部井淳子さんです。

          Newsletter 2015年4月号
平成27年4月10日 第369号
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インタビュー連載 第1回

 

山の世界の彼方此方で活躍されている人々をたずね、「そうだったのか。」を聞き出します。

── 今年は女性初のエベレスト登頂から40年です。先日オープンした昭島のMORI PARKアウトドアビレッジで、当時の装備が展示されていました。

 そうなんですよ、私は捨てられなくて。片桐のテントでしょ。当時のピッケルやアイゼンも。羽毛服は当時、ひざ下七分のいまで言うインナー上下で過ごしました。だから足首までないの。寝袋は羽毛だけど、中国から羽毛だけとりよせて、日本の布団屋さんで縫製してもらいました。それから、オーバーミトンは車のカバーでつくってもらいました。あの頃のオーバー手袋は羽毛入りなど、とても高かったので、買えなかった。
 女子エベレスト隊の総予算は4,300万円でした。隊員15人で一人の個人負担は150万。もうそれ以上は出せないので、あちこち計画書もって、丸の内界隈も歩きました。でも100%無理、と言われて、無理なものに応援はできないと言われたり、あんた年齢いくつ、とか関係ないこと聞かれたり、いまだったらセクハラですね。(笑)

── 資金計画にもご苦労がありました。 女子だけ、という発想はどこから

 山岳会では男子と登っていたからスピードが違うし、ホールドやスタンスの幅が違う。谷川岳は土合の駅から取り付き点まで競争でしょ。ゼエハア、ゼエハアして、それから岩を登るわけでしょ。苦しいです。女性同士であれば背丈も同じだし、着着えやトイレも気を遣わない。岩登りだと腕力が違うからハーケンの打ち込みだってまるで違う。男子は数回で入るのに私なんて何度も叩かなければならない。とにかく男性とはスピードと瞬発力が違う。だからヒマラヤに一緒に行くにはフェアでないと思いました。


── 当時の社会人山岳会は男性限定、という会もありました。その当時に女性限定で隊員15人を集めるということはたいへんだったのでは。

 女性で登っている人もいましたけど、一ノ倉沢ではまず女性には遭わなかった。それくらい男の世界でした。1970年にネパールヒマラヤが解禁されるということで、女性だけで遠征隊を組もう、と宮崎(後に久野姓)英子さんから、「女だけで行きたいんだけど。一度会いたい。」と電話がかかってきて、それから関田美智子さんと宮崎さんの3人でよく会いました。それが女子隊の発端です。
 それから女性が入っている山岳会を探して、その会がいつ、どこで例会をやっているかを聞いて、そこに行ってスカウトするわけです。上野や新宿の駅でも山へ行く女性に声をかけました。文部省登山研修所にも行って女性に声をかけたりして、富山の人にも参加してもらったのです。名古屋の中世古さんのグループや遠藤京子さんにもお願いしてやっと18人くらい集まってきた。
 それで、女子登攀クラブとして、女性だけのヒマラヤ遠征が1970年でした。最初7千m峰に行って、次に8千mに行く計画だったけど、知識もなかったので、深田久弥さんに相談に行きました。親切に教えてくれて、アンナプルナⅢ峰(7,555m)を勧めてくれました。インド隊が登っていましたが、南側は未踏だった。アンナプルナの後、次の8千mをどこにするか、14座の中から、女性だけで登れそうな5座を選んで残ったのがエベレストでした。
 アンナプルナⅢ峰を新ルートから登頂し、その帰途、インドのエベレスト登山隊の動画を見ることができました。このときに私は、「これは登れそう。」と思ったのです。帰りの船の中でも、「次はエベレストだ。」と心に決めていたのです。隊長だった、宮崎英子さんにも、「あなたもエベレスト。私も同じ。」と言われ、それから、宮崎さんとは他のメンバーをどう説得するか相談しました。 


── どうせ行くなら、世界最高峰エベレスト、ということでしょうか。 

 1971年に申請して、許可が出るのが1975年のプレでしたから、それまで待ちますと答えました。当時は1シーズン1隊でした。いまのような公募登山隊もありません。女性だけのエベレスト登山隊は、画期的でしたが、反対も多かった。でも、本当に登れると思っていたかと聞かれると、7割は登れると思っていましたね。
 1970年の日本山岳会隊の植村直己さん、神崎忠男さんが親切に教えてくれた。とくにローツェフェイスやアイスフォールのことなどほんとうによく教えてもらいました。でも他の人たちは、「無理だよ。」と言う人が多かったです。

── いよいよエベレスト登頂です。大きな雪崩もありました。

 エベレストもあきらめなかったから登れた、ということです。あきらめるという気持ちはまったくなかった。第2キャンプを襲った雪崩では物資は流されて大変だったけれども、誰も死ななかったから下山することはないな、と思ったわけです。でも、第2キャンプにいた報道班から「行動中止」のような情報が出たのですが、「いまのは報道班の意見で、私たちの意見ではない。私たちは降りません。」と言い張りました。報道班には、「シェルパだって行かないよ。」と言われましたが、一緒に登頂した、アン・ツエリン・シェルパが、「タベイ・サーブが降りないなら、シェルパも降りない。」と言ってくれました。隊長の久野(旧姓宮崎)英子さんには降りろ、と言われましたが、「私たちは行きます。」と。男性ばかりの遠征隊ではもめたりしますが、私たちの女性隊ではもめなかった。誰かが登らないと帰れないし、あの高度ですから、高所に鈍かった私が、「田部井さん、お願い。」と言われたようなもので、1975年5月16日にエベレストに登ることができました。

── エベレストの後、七大陸最高峰登頂や、アイガー、マッターホルン、グランドジョラスとエネルギッシュに登り、近年は、東日本大震災で被害を受けた、ふるさと福島の高校生と富士登山をされています。

 高校生たちには仲間同士で日本一の富士山に楽しく登ってほしい。あきらめてほしくない。被災の後、子どもたちは身近な大人でなく、第三者の大人に文句も聞いてほしいと思っていると思います。甘えたいし、言いたいこともあるでしょう。自分の学校でないサテライト校に通っている子も多い。富士登山中、高校生たちは甘えたいのか、あと何分?とかすぐ聞いてくる。男子も女子も素直で子どもっぽいところもあるけれど、一歩一歩、大変な思いをしてあきらめずに登った富士山で抱きあってよろこぶことを次の世代の高校生にも伝えてもらいたいですね。あきらめなければ頂上につくことを東北の高校生たちに知ってほしいのです


── この東北の高校生支援の富士登山の経費は浄財でまかなっておられるとか。

 とにかく助成金の申請が大変、いただけるときもあればそうでないときもあります。講演会や知人へのPRで500円から10万円単位まで、いろいろな人が、賛同してくれてこの富士登山をつづけています。大震災から4年、私のふるさと福島が元気になってくれれば、という思いです。そのためには若い力である、高校生たちに、希望とか夢をもってもらいたい。あきらめずに一歩一歩進めば、富士山だって登れる、ということを知ってもらうために今年もつづけます。1975年5月のエベレストだって、途中であきらめたら登れませんでしたから。


 

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 田部井さん、本日はお忙しいなか、お時間をとってくださりありがとうございました。高校生の富士登山を2年間お手伝いさせていただき、今年もご一緒させていただきます。
 歩き始めてすぐに、「もうだめです。」と弱音をはく高校生を仲間が励まし、田部井さんが温かい手でマッサージする姿に打たれながら、私たちも元気をもらってきました。
 エベレストから、40年、これからもどうか活発に山を歩き、ふるさと福島の高校生を激励してください。それから、声高らかに歌声を響かせてください。

 
(平成27年3月13日 聞き手:黒川 惠)